新聞をデジタル版に変えてみて
朝刊をデジタル版に変えてみて一月ほど経ちました。
最初はiPadの画面の小ささが気になりましたが、それはだいぶ慣れました。
右上から左下への縦書きの記事の流れが、左上から右下への横書きの流れに変わったことについてもネットニュースを見慣れているせいか、ほとんど違和感はありませんでした。
でも最近ふと気が付いたことがあります。
デジタル版では新聞以上に情報を選り好みしてみている自分がいました。
従来の紙の新聞のようにすべての記事があの紙面いっぱいに展開されていれば、それほど気にならないニュースでも、ざっとは目を通すことができました。
ところが、デジタル版ではニュースのタイトルと記事の最初のほうの文面のみが扉ページに表示されているため、その部分が自分の興味をひかないと、その記事をタップしない、つまり読み飛ばしていることがあるようなのです。 それも無意識に。
ある朝のことでした。 最近はもっぱらデジタル版を私がiPadで読み、紙の新聞は広告含めて妻が独り占めをする・・・というパターンなのですが、妻が日常のなにげない記事を読んで、「あの記事どうだった?」 と聞くのです。
「はて・・・そんな記事あったっけ?」とデジタル版を読みかえしてみると確かに記事はありました。
その時は単に「あれ? 読み飛ばしたか?」・・・と思っただけですが、最近は自分で意図的に読み飛ばしているらしいことに気付いたのです。
つまり、今までの紙面ならざっとでも見ていた情報を、デジタル版になったとたんに最初から読みとばしているようなのです。 それも無意識に。
単なるネットニュースのように新聞を読んでいる自分。ネットニュースのような記事しか掲載されていないデジタル版の新聞。 そんなデジタル版の新聞に少し違和感を感じていいます。
その違和感とは何か?
それはデジタル版の「ななめ読みのしにくい構造」に原因があるようです。
とにかく、ダイニングテーブルでコーヒーをのみながら、バサッとひろげて、ざっとななめ読みができる紙の新聞と意図的に記事を選択しタップして詳細画面を呼び出してから読むという積極的な行為をしないと目に入ってこないデジタル版。
この構造の違いが、長年刷り込まれてきた今までの新聞というものの感覚とのずれを生じさせているように思います。
紙とデジタル・・・新聞だけでなく、いろいろ場面で比較されますが、私自身のこの体験を通して、人間にとって、広く情報を取り入れるということは、「見ているようで見ていないもの」や「目の前をとおりすぎていくようなもの」も含まれるのではないかと考えるようになりました。
例えば、腕っこきの新聞記者さんの中には、数百文字の中に、事実や洞察などを起承転結に見事に編み込んで、最後のワンセンテンスで名文面として昇華させるくらいの筆力をもった方がいます。
そんな記者さんが書いた記事でも、そもそも読んでもらえなければ、筆力も感性も何の役にも立たなくなってしまいます。
デジタル版になり新聞というものが単なる情報伝達装置化してしまったとしたら紙面とデジタル版は似て非なるものと言わざるをえません。
結果的に職人的な記者さんの書く記事が消えていくようなことがあってはならないと思い、私は最近、デジタル版でも隅から隅まで(タップできるものはすべてタップして)記事を読むようにしている次第です。
IT系のお兄ちゃんの書く無味乾燥なメール文面のような紙面になったとしたら紙であれデジタルであれ、私は新聞を読まなくなるでしょう。
新聞記者さん、これからも良い記事を書いてください。
デジタル版でも、あなた方がマス目に込めた思いを読み取る読者はまだまだいるんです。
後日談
ある日、そんな感傷めいたことを思っていた新聞について妻が一言いいました。
「折込広告がなくなると困るから、紙の新聞はやめないでね!」
だれか、デジタル版を集めておくと定期的に回収してくれてトイレットペーパーに変えてもらえないものでしょうかね?
もちろん、その際は名文のコラムだけは、デジタルスクラップしてとっておくようにします。(笑)
さすがです、デジタル新聞との違いが一目瞭然でした。
チリ紙交換のはなしもイケてます...
投稿: とび | 2011年8月31日 (水) 09:34